四方山噺日常録-Retreat Daily Record-

仕事を離れた人間が気ままに過ごす日常録

飛んでくっつく、春の虫

駅前で軽く買い物を済ませて帰ろう、と出掛けたつもりだったのに、晴れた空の下、駅まで歩いているうちに、「ちょっと電車で遠出しよう」という気分になった。運賃表と時間を見ながら考えた結果、行き先は『昭和記念公園』に決まった。

電車で長い時間揺られた後、西立川駅に着いた。この駅は、駅出口からほぼ直結で公園に入ることが出来るので便利だ。入場料の450円を払って券売機で当日券を買い、門をくぐれば、平日にも関わらず、多くの人で賑わっていた。

案内板を見ながら、チューリップやネモフィラに狙いを定めて、のんびり歩く。風が強かったので、入口近くで手に入れた園内の案内マップは早々にバックの中に入れて、歩く途中で見える矢印を頼りに、まずは三分咲きながらもネモフィラを見ることが出来る『花の丘』を目指すことにした。

桜は満開の見頃を少し過ぎている場所もあり、風に乗って、淡いピンク色をした小さな花吹雪が舞っていた。この桜吹雪も今の時期にしか見ることが出来ない風景なので、時折矢印を確認する時に、その風情を楽しむ。

園内は売店にカフェもあるので、どこかで飲み物を買って、ベンチに座って楽しもうかとも思ったが、賑わいの中、花が綺麗に見える場所は広場も含めて、見える場所全てのベンチがほぼ埋まっている状態だった。

のんびりするのはまたの機会に、と考えつつ、どんどん歩いて先に進んでいく。目的地の『花の丘』、ネモフィラまであと少し、という所まで来たとき、また風が吹いた。

向かい風で桜吹雪がこちらに来るように舞う。ただ、この時は花びらだけでなく、何か黒っぽい小枝のようなものも、風に舞って向かってきた。

身体にくっついた気がして、立ち止まって目線を身体の方に向ける。実際、小枝のようなものがくっついたのはショルダーバッグのベルトだった。程なくして、黒っぽい小枝のようなものは元気よく動き始める。

小枝でなく、虫だった。

長さは人差し指の第一関節程で、15ミリから20ミリくらい。身体の色はチャコールグレーに近い。動く様子は毛虫にそっくりだが、どこにも毛がない。

慌てず、騒がず、この「飛んでくっつく春の虫」が私の知っている虫なのかを頭の中で急いで探る。結果、記憶になかった。

おそらく、どこかの木にくっついていた所を、強い風に煽られて、こちらに来てしまったのであろう。この「春の虫」が身体をくねらせながら元気よく上っているのは、樹皮ではなく、ショルダーバッグのベルトである。これは早く、自然に返さないと。

細心の注意を払って、見つけた小さな虫から目を離さないまま、そっと肩掛けのベルトを持ち、バッグを下ろす。記憶にない、初めて見る虫である以上、触るとかぶれたりする可能性もあるため、極力小さな虫の身体には触らない。

ベルトを揺らさないように両手で持ち、バッグ本体は下に垂らしたまま、近くの大きな木があるところのすぐ下、なるべく芝生がある場所に向かう。道行く人からしたら奇妙な姿に見えるかもしれないが、虫の命が最優先だ。

芝生といくつかの草木がある場所で、ベルトを何回か上下に振る。小さな虫がベルトから離れまいと抵抗していたが、やがて草木に軟着陸したことを確認すると、サッとショルダーバッグを背負い直した。

任務完了。後は強風と踏まれないように気をつけて、と心の中で呟いて、何事もなかったかのようにその場を離れた。

人助けならぬ「虫助け」をした後に眺めた『花の丘』のネモフィラは、三分咲きながらも、どこか少しだけ輝いて見えた。